
政治資金規正法に絡む(らしい)今回の「事件」も、あまりに絶妙すぎるその「タイミング」に、当然の如く「変なの。」という思いを抱きました。おまけに、代わったばかりの政権与党のトップ2人が対象で、既にうち1人を引きずり下ろすことに見事成功しているのですから、「狙い撃ち」と思わないほうがむしろ不自然です。そのやり口も、是が非でも有罪に追い込もうとする決意や緻密さは感じられず、せいぜい「大騒ぎの末のイメージダウンで充分だ」と言わんばかりの粗雑さばかりが目に付きました。
それは当該の「役所」のことではありません。「事実」を「客観的」に報じているらしいメディアの「偏りかた」の問題です。もちろん、似たようなことは、これまでにいくらでもあったことです。ただそれは、「メディア・スクラム」という言葉で仰々しく形容されるような、怒濤の勢いで迫ってくる何かではありませんでした。
通り一辺倒の報道に一抹の閉塞感は感じても、その「一辺倒」が私を圧殺しにかかる「凶器」とは到底思えませんでした。せいぜい「どこを切っても金太郎」とばかりに、その変化の無さに「げんなり」させられるだけのことでした。似たような情報のシャワーを浴びせられ続けることへの「飽き」と「馴れ」によって、いつしか「無力感」という名の真綿にくるまれてしまうのです。ある意味で、それはなんとも心地良い「ねぐら」でした。
ところが、それはどうやら「かごめかごめ」の輪の中に囲まれている状態と、さして変わるところが無さそうでした。誰もが笑顔で私を取り巻いてくれるので、私はすっかり安心し、安心するだけではなく、そんな具合に構ってもらえることが、とっても嬉しかったのです。しかし、実はその笑顔こそ、狂気の微笑(ほほえみ)だったらしい……。
そんなふうに思えたのは、TwitterとUSTREAMによって、「別の見方」に接することができたおかげです。いちばんのきっかけはInfoseekの「内憂外患」(こちら) で、「『新撰組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」(こちら)のライブ映像を観たことでした。この配信があることを教えてくれたものはTwitterでした。
内容的には、いわばゲリラ版の「朝まで生テレビ」です。その意味では、こちらも負けず劣らずに偏っているのですが、それでもそこで交わされる議論には充分な説得力があり、また編集を経ない生の言葉がそのまま伝わってくることの迫力がありました。なにより、通常のテレビでは観たことも聴いたことも無い、しかし強烈に相対化してくれる「見識」に触れることができたのでした。
映像に並んで流れるTwitterの反応にもありましたが、「大本営発表」しか得られない戦時下で、唯一のまっとうな地下放送を受信しているような昂揚感がありました。画質も悪く、わずか10cm四方に満たない画面が伝える「臨場感」のすさまじさの前には、42インチ液晶テレビがもたらす迫力など、もはや敵ではありませんでした。生放送の討論番組に「意見投票」で視聴者参加できる「双方向性」や「臨場感」などが、いかに愚にもつかないものかを思い知らされたのでした。
法的な整理整頓はともかく、一市民である限り、「放送」と「通信」の腑分けがまるで無化したことを実感した瞬間でもあったのです。
(つづく)

« Thank you for reading.

さて、そんな折も折、他県に勤めている先輩同僚と、久しぶりに飲む機会がありました。 先週末の土曜日のことです。およそ3年前に引っ越した彼は、つい先頃、テレビを新調したのだそうです。後学のためにいろいろと訊ねました。メーカーはどこが良いのか、小さくても画質の良い機械があるのか、画面のサイズはどのくらいが適当か、そしてBS、CSもしくはケーブルテレビに加入したか、等々……。
親切な彼は、懇切丁寧に自らの体験を語って聞かせてくれました。なかでも私が興味を惹かれたのは、新調して以来、それまでとは比べものにならないほど、彼を含めた家族のテレビ視聴時間が増えてしまったということでした。
彼の解説によると、こういうことになります。購ったのは37インチでした。しかし、「いま考えると、すこし無理をしてでも42インチにすべきだった。」と後悔しているのだそうです。
そのくらい、地デジの画質が優れていて、しかも大画面による「臨場感」は、とてつもなく魅力的なのだそうです。おかげで、5年生の娘さんは松潤さんに、奥さんは内野聖陽さんに、そして本人は、それまでまるでシンパシーなど感じていなかった鳩山総理に対して「「命を守らなきゃ!!」と思ってしまうくらい、ついつい感情移入させられてしまうのだ。」と言うのでした。
地デジの高画質に加え、さらに実物大よりもすこし大きなサイズで本人が映し出されると、その臨場感は半端では無いのだそうです。彼の一家も、それまでは16インチのブラウン管でした。そのサイズからの移行からだったので、当初は37インチでさえ「デカ過ぎる」と思っていたのです。
その彼が「42インチにしておけば良かった」と後悔するくらい、その臨場感は魅力的なのだそうです。3Dなどにしなくても、16インチのブラウン管からの移行は、既に充分に3D的なのでした。
そうしてふと、思いました。高画質・高精細・大画面のテレビによって…..つまり、テクノロジーが高度に洗練され、そしてますます発達するにつれ、我々はどんどん、何かに絡め取られてしまっているのでは無かろうか…..と。
そう言えば、デジタルによる双方向性が可能になった液晶テレビも、そしてもしかするとiPhoneやiPadも、実は『1984』の「テレスクリーン」が現実化したものでは無かろうかと…..。
(つづく)

« Thank you for reading.

危ういながらも、どうかこうか映っている我が家のブラウン管テレビ(14インチ)です。そのあたりの詳細は、昨年、「かれこれ15年」や「ショック療法」という記事に書きました。その後、さして状況は変わっていませんが、いささか「うにょん。」の頻度が増えたような気もします。う〜む…..。
ここ1〜2年ほどの間に気が付いたことですが、もしかすると、テロップの文字サイズはおしなべて小さくなっているのではないでしょうか? 大画面のテレビが増え、画質も向上し、それに対応した画づくりが進むなか、同じものをブラウン管で観ていると、割を喰っていることがあるのかな……。
たとえばF1中継など、スターティング・グリッドを紹介するテロップのサイズは、以前に比べて明らかに小さくなった気がします。我が家の場合、テレビの配置にはまったく変化がありません。にもかかわらず、いつもの定位置から眺めても、その文字が読めないことがしばしばです。はじめは視力の低下を疑いましたが、それが理由ではありませんでした。
で、カミさんと出した結論は、「大画面になったことで、テロップに盛り込める情報量が増えたために、ウチのような14インチで眺めると、相対的に小さくなって見えるのでは無いだろうか?」というものでした。そのつもりで各局の番組のテロップに注目すると、情報量が多い割に、そのサイズが小さく思えるのでした。
いいかげん、妙なこだわりは捨てて、サッサと新しいテレビに切り換えれば良いのかも知れないのですが、どうにも二の足を踏んでいます。使えるのに買い換えてしまうことへの罪悪感はともかくとして、「画面サイズ」の問題が、私の中では大きなネックとなっているのです。
生まれ育った実家では、長らくSONY製の14インチのブラウン管テレビを使っていました。タッチパネル式のテレビに買い換えたとき(たぶん1982年頃)も、せいぜい16インチ程度だったのではないかと思います。そのまま私は学生になり、最初の1年はテレビの無い状態で過ごしました。ですから、石原裕次郎が亡くなったとき、その模様はTV音声の入るFMラジオで聴いていたのでした。
しかし、独り暮らしの寂しさを紛らせてくれるのは、やはりラジオよりもテレビでした。2年目には降参の白旗を掲げて購ったのですが、独り暮らしの身で実家よりも大画面にすることがためらわれ、また、もとよりそれほどのお金があるはずもなく、結局、落ち着いたのは14インチだったわけです。
つまり、これまでの私の人生のなかでは、「テレビのサイズは14インチ」と決まっていたわけです。
(つづく)

« Thank you for reading.

先月半ば、「かれこれ15年」という記事に書いた自宅のテレビですが、いよいよ怪しい状況になってきました。「うにょん」とか「きょぴん」といった小刻みな伸縮が、誰の目にも明らかな頻度で生じるようになったのです。う〜ん…..さすがにもはや限界か…..。何が悪いのか見当もつきませんが、まるで断線間際の蛍光灯を眺めているような心地です。いずれ唐突にブラックアウトしてしまうのでしょうか…..。
地デジへの完全移行が果たされる2011年7月まで、とてももちそうにありません。もちろん、ここまで動いてくれた奇跡の方に感謝しなければならないのですが、いざこういう時を迎えてみると、なんとかならないものか…..とも思います。
さらに現実的に怖いのは、漏電を起こして火を吹いたりしないだろうか…..ということです。先だっても、買ってから5年近くになる除湿機のコード、その根元に傷がついていたらしく、被覆のビニールが溶け、配線が剥き出しになってショートしていたのです。ブレーカーが落ちてくれたので、感電することも火を吹くことも無く済んだのですが、これが留守中であったなら、一歩間違えば…..とゾッとしたのでした。
家電製品の場合、メーカーの定める耐用年数を過ぎたなら、頃合をみて買い換えるのが賢明かもしれません。どれほど長持ちを自慢したところで、火事を起こしたのでは元も子もありません。このテレビも、さすがにここらが潮時か…..と、いささか寂しい心持ちなのでした。
さて、こうなると、次にどのテレビを購うか、さっそく機種選定に入らなければなりません。このご時世ですから、もはやブラウン管など望むべくも無く、薄型液晶テレビと言うことになるのでしょう。
しかし、大画面は剣呑です。いまのSony Trinitron14inchを置いているスペースに収まる大きさでなければ困ります。ところが店頭で見る限り、画面の大きさと画質とは正比例するようです。つまり大画面で高額な機種ほど、パネルの品質も良く、高性能な画像処理エンジンを搭載しているように思えます。
もちろん、きちんと検証したわけではありませんから、なんとも言えないのですが……20inchそこそこで、高品位な画質を持つ機種があれば、すぐにも飛びつくのですが……。しかも、Sony製ならまったく文句はありません。
ところで、他にも考えておくべきポイントがあるのでしょうか。たとえばDVDプレーヤーとの接続、地デジや衛星テレビのチューナー関係のこと以外に、考えておくべきことがあるものでしょうか…..。
などと、「次のテレビ」を考え始めることが、いま不調な我が家のテレビへのショック療法にならないだろうかと、密かに期待しているのでした(笑)。

« Thank you for reading.

以前にも、このブログで話題にしたことが幾度かありますが、我が家のテレビは私の下宿時代から使っているものです。改めて型番を確認したところ、SONYの”KV-14GP1″という機種でした。14inchのTrinitronで、製造番号らしきものを見たところ、どうやら1995年製のようです。かれこれ15年近く使ってきたことになります。
このテレビ、私にとって2台目のテレビです。下宿を始めて最初の1年間はテレビ無しの暮らしをしていました。しかし、あまりの寂しさに耐えかねて2年目に白旗を掲げて購入に踏み切ったのですが、それは今の機種と全く同じモデルでした。その最初の1台は、6年ほど使ったところで壊れてしまったのでした。
当時は当たり前のようにお金がありませんでしたから、当然のごとく、修理に出すことにしました。持ち込んだのは、パソコンのパーツなどを安く販売していた地元の電気店でした。しかし店主からは「修理に出すよりも買い換えた方が安くつく」と言われてしまいました。「そんなものなのかぁ…..」と思いつつも、治せないことが、なんだかとても惜しい気がしていました。
そうして陰気で雑然としたお店の棚をふと見上げると、全く同じ型のテレビが展示品処分で並んでいます。ちょうどモデルチェンジの時期だったのです。ウロ覚えですが、2万円を切るくらいの値段だったような記憶があります。一も二もなく飛びついたのが、今も使っているこのテレビなのです。
そのときは「また6年後には壊れるのだろうなぁ…..」と思っていました。展示品ですから、あるいは寿命はもっと短いかも…..と思っていました。しかし、当時から6年も経てば、おそらく就職して収入もあるだろうし、もっと画面サイズの大きなテレビを手に入れることも出来るだろう…..いずれにせよ、10年は持つまいと思っていました。
それが今や15年…..。この間、引っ越しを3回、カミさんと一緒になり、息子がひとり、生まれました。彼も今や8歳です。せっかくここまできたのですから、地デジへの完全移行を強いられる2011年7月までは、なんとか持ちこたえて欲しいと思っているのです。ところが、ここのところ、どうにも怪しい兆候が…..。
ときどき、「うにょん」となるのです。「うにょん」と言うよりも、「ぴょきんっ」と痙攣するような感じでしょうか。意識していなければ、ほとんど気がつかないくらいなのですが、ほんの一瞬、画面全体がミリ単位で伸縮するのです。
う〜ん……そろそろ限界なのかなぁ…..。なんとか持ちこたえて欲しいのですが…..。

« Thank you for reading.