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容器の私。

  • October 11th, 2010 (Mon) 21:37
  • 思惟

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同じ愉しみを分かち合える人が居ることは、何事につけ人生を豊かにしてくれるものです。新しい職場でイチから人間関係を紡ぎ直す状況に身を置くと、殊にそのありがたみが判ります。なんだかずいぶん年寄りじみてしまいますが、そうして一期一会を大切にし、好悪はひとまず棚上げし、出会ったことの「意味」を訊ね、自ら働きかけるよりも、とりあえず受け身のまま、流れるままに身を委ねてみる…..。

これが私にとっての「中年期の発達課題」なのかなぁ…..とボンヤリ考えています。もちろん「あなたまかせ」の人生に方向転換したわけではありません。望むほうへと周りが動き始めるように、ちょいと指でつついてみたくなることもあります。あるいは意に沿わぬ動きに苛立つこともあります。時には率先して異議申し立てしたくなることもあります。

しかし今は、そんなふうに私の心が反応しても、すぐさま動き出すのではなく、ひと息もふた息も深呼吸して様子を見、敢えて何も手を出さず、放っておくことが多くなりました。客観的には単なる怠慢ですが、そうして私が動かずにいた結果、果たして私の予想通り、良からぬ展開に陥ったのか、それとも望外の結果に至ることができたのか、ひとまずは時間を置いて見定めてみよう…..という気になれたのです。

逆に言えば、今までの私は本当に落ち着き無く、矢継ぎ早に手を出さなければ気の済まないタチでした。半径数mの世間に働きかけ続けるのが、私がここに居る意義であり義務だろうと思っていたのかもしれません。しかし皮肉なことに、そうして休まず動き続けることこそ、私自身が最も安寧を得られる瞬間でもあったのです。なんと気ぜわしく、ハタ迷惑なことでしょう。おかげで、自分のことを「有能」と思うことも無ければ、「無能」とも思わずに過ごせてこられたのでした。

要するに私にとっての「成功」とは、自ら加えた手の先に着地させることでしかなかったのです。その範疇から離れたところに、質の異なる「成功」が口を開けて待っていたのかも知れませんが、幸か不幸か(否、おそらく「不幸」だったに違いありません)そこはハナから視野に入っていなかったのです。なんとも狭い範疇でしか、モノを観ていなかったわけです。

以前、「学び直し」という記事(こちら)に書いた、私にとっての「中年期の発達課題」のことを考え続けています。中年期だからこそ、成長したいのです。そのためには、他者(ひと)に教えてもらうしかありません。とりあえず、空っぽの容器の私になってみること…..。そう思って周りを見れば、なんと優れた教師たちに囲まれていることか…..(愉)。

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