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臨場感(4)。

  • February 15th, 2010 (Mon) 19:08
  • 思惟

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政治家であれ実業家であれ、特定の誰かをめぐる報道があまりに一方的過ぎていると、念のために一応は不審の念を覚えてみたりします。しかし「どうせ日本のメディアだから」とか「どうせワイドショーだから」と、その質を貶めることによって、それ以上の詮索を自分に課すことはありませんでした。ただ、よくよく考えると、こうした主体性の無さこそが、報道の内容を「鵜呑みにしないままの状態」で、しかしその実、しっかりと「腑に落としてしまっている」のでした。

考えてみれば、いままでにもそんなゴシップやスキャンダルはゴマンとありました。国民がこぞって誰かを血祭りにあげることなど、さして珍しいことでもありません。おまけにそうした事件の類が、私たちの日常生活に直接干渉してくることなど、まず有り得ません。

むしろ、さながらスポーツ観戦と変わらぬくらいの昂揚感と爽快感と無責任さで、日頃の憂さ晴らしができるのです。おまけに、そうしてメディアが演出する一体感や連帯感に包まれてさえいれば、後顧の憂い無く、安心して、凡庸な国民として日々の平穏を保つことができるのだ…..そんなふうにさえ思っていました。なにしろ、そうして騒いだことの個人的な責任は、一切問われることが無いのです。いっしょになって騒がなきゃ損なのです。

ただ、そんなふうに思えたのも、これまで、NHKや大手の民放ほどのインパクトを持って迫る情報源を他に持たなかったからです。

「新聞」というものに不審の念を抱き始めた最初は、高校生の頃でした。発端は情けないくらい馬鹿馬鹿しいことです。いわゆる訃報記事です。子どもの頃、そこに名前が載るのは偉い人なのだと思っていました。「偉い人なのだから、亡くなったら役場を通してすぐさま新聞社に情報が届く手筈になっているのだろう」と、無邪気に思っていたのです。

ところが遠縁の老人の通夜の席でのことです。親戚の誰かが新聞社に電話を入れ、訃報の掲載を依頼しているところを、たまたま見てしまったのでした。役場からでも何でもなく、「なんだ、自分で紙面を買う仕組みなのか」と知ったとき、妙にショックを受けたことを憶えています。たった1日の新聞一面広告が、数千万円もすることを知ったのも、ちょうどその頃のことです。

さらに、この仕事に就いて以来、上司が地元紙に取材依頼の電話を頻繁にかけているところを目にするようになりました。何のことはない、こちらからネタを売り込まない限り、新聞社の「見識」で、自ら主体的に取材に来てくれることなど有り得ないのだ、ということを知りました。そうして出来上がった記事の多くは、こちらの真意や思惑からは絶妙に逸れていて、いつも上司の不満のタネとなっているのでした。

そんなことを承知のうえか、この土地に人脈を築いている別の上司などは、「僕の場合、毎日の訃報記事に目を通すためだけに、大枚叩いて地元紙を購っている」と言い出す始末なのです。やがてその地元紙も、独自の取材に基づく記事はごくわずかで、多くは他社から購ったものだと知るようになったのです。

(つづく)

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