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枠の外の物語(5)。

  • March 6th, 2009 (Fri) 17:19
  • 光画

2008KRSK080.jpg

もちろん、撮り手に出来る唯一のことは、被写体を枠の中に収めることでしかありません。枠の外に物語があるのなら、そちらへ向けてシャッターを切れば良いのです。しかし不思議なもので、どれほど広角のレンズを使おうが、あるいはまんべんなくあちこちにカメラを振り向けようが、決して撮り切れなかった何かへの思いは残るものです。

中学生の時、当時暮らしていた土地を離れることになりました。引っ越しが決まってから、私は父に借りていたNikomat FTnで、思い出の残るその土地を隈無く撮り歩いたことがあります。夏のはじめのことです。白黒のネガフィルムを使い、自分で現像し、当時我が家に有ったダークレス現像機で焼き付けました(参考記事:「来歴(その3)」)。

しかし、そのときの私は、肝心なものを何ひとつ写せていないという異和感を拭えませんでした。その写真には、かつて幼い頃、近所のお兄さんやお姉さんと一緒に走り回った原っぱがありました。捨てられた廃棄物を利用して秘密基地を作った竹藪がありました。その中へ分け入って、相変わらず不法に投棄されていたゴミも写しました。

友達が溺れかけた小さな池がありました。忍び込んで遊び回っているうちに、放ってあった缶のペンキをひっくり返してしまい、慌てて逃げた小屋がありました。雨水の排水用の穴から小石を落として遊んだビルの屋上がありました。当時は施錠もしておらず、誰でも出入り自由だったのです。子どもにとって格好の隠れ場所であり遊び場でした。寒い朝には厚い氷が張り、石を投げると不可思議な音のする溜池もありました。ヘビイチゴを探しまわった叢もありました。無論、当時暮らしていた木造平屋建ての借家も、あらゆる視点から撮りました。

そうして出来上がった写真たちは、私の中にある生々しい感傷など、まるで無視したかのように無機質でした。つまり、どれだけ撮り尽くしたつもりになっても、思い出は私の身体の中にしか無かったのです。すこし大袈裟に言えば、写真への失望を味わったのかも知れません。

しかし、いまその写真に対面すれば、当時は抱くことの無かった感傷が、私を訪なうのではないかと思います。それはきっと、実際にその土地を訪ねること以上に、私の中の郷愁を刺激せずにはおかないでしょう。

既に様変わりした現在に、過去の光景を重ね合わせようとしても、その拒否反応にたじろぐばかりです。かつては砂埃が舞い、轍(わだち)ができ、雨上がりの水溜まりにアメンボの遊ぶ、バラスで埋められた泥道だったはずでした。風の便りに聞いたところでは、その道はとっくの昔にアスファルトで舗装され、その上を跨いでバイパスの高架が走っているそうです。

不可逆の時間に過去の正当性を訴えても詮無いことです。それよりは、痕跡程度でしかないにせよ、間違いなく当時を記録した写真の方が、私の中の過去を快く受け入れてくれることでしょう。

(つづく)

2008KRSK082.jpg

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