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依存症。

2008Asato014

違法な行為に手を染めている人が警察に捕まったとき、あるいは、大病への自覚症状を感じている人が医師に病名を宣告されたとき、そこにある絶望とは裏腹に、「これでやっと救われる」という心地になることがあるのだそうです。どことなく、その気持ちは判るような気がします。

法に触れるか触れないかは別としても、大なり小なり、誰しもある種の「依存症」を抱えています。お酒が好き、煙草が好き、お菓子が好き….。食に対する嗜好性も、似たようなものでしょう。私の場合、太らないことを良いことに、食後の「かりんとう」が止められません。

学生時代、とある食堂に昼食を摂りに行ったときのことです。その日は日曜日でした。小学生くらいの男の子2人を連れた家族が、向かいの座席に腰を下ろしました。子どもたちは一目散に週刊漫画雑誌を手に取りました。お父さんはスポーツ新聞、お母さんは婦人雑誌。そうして麗らかな日曜の昼、沈黙の一家団欒が続いていました。

そのときは「こんな家族にはなりたくないなぁ…..」と思っただけでした。しかし、もしかするとこの先、私も似たような過ちを犯してしまうかもしれません。いまのところ、子どもは小学1年生なので、そうした雑誌に興味がないだけの話ですから。

街中を自転車で通勤していると、すれ違う自転車乗りの多くが、携帯電話を見ながら運転している光景に出くわします。傘差し運転さえできない私は、その器用さに驚くばかりです。よしんば普通に運転している人でも、信号待ちのさいには必ず鞄やポケットから携帯を取り出して、なにやらせわしなくチェックをしています。

出張で公共交通機関を利用すると、都会や田舎を問わず、ある光景に出くわします。友達同士で連れ立っている集団が、隣に友達が居るにもかかわらず、「そこに居ない誰か」と携帯で繋がろうとしているのです。たとえば三人連れが三人とも、並んで携帯を開けているような光景です。もしかすると、隣に居たのは「友達」では無かったのかもしれません。

幸か不幸か、いまのところ、私は公私ともに携帯を持たずに暮らせています。そこには何のポリシーもなく、「携帯電話」というツールに、単に乗り遅れただけのことです。

それにかかる費用を考えたとき、ついついフィルム代のことが頭を掠めてしまうので、この先もしばらく、携帯を持つことなく暮らして行けそうです。そんな私にとって、こうした光景はどこまでも不可思議なものなのです。

気がかりなのは、そうした「集団的依存症」そのものではありません。ましてや、それによって生じると言われる「人格の歪み」とやらでもありません。自らに歯止めをかけられないことが、些細な日常への「権力」の介入を、多くの人がいともたやすく認めてしまうだけではなく、むしろそれを無意識の裡に待望していることが怖いのです。

そのように考えると、「権力」とか、あるいは権力を行使せざるを得ない立場にある人々は、実はめぐり巡って、私たちの依存症なり自律性の無さが生み出したスケープゴートでもあるのかもしれません。

2008Asato013

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