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最後通牒。

2008Nabari032
雑誌『Pen』の今月号を買いました。この雑誌、時折、写真に関する特集記事を組むことがありますから、定期的なチェックが欠かせません。今月の特集は「デジタル×写真術」。内容如何ではスルーするつもりでしたが、東松照明さんのインタビューが載っていては、連れて帰らぬわけにも行きません(苦笑)。

このテの雑誌の常として、記事の本文までもが、さながら企業広告そのものと言えるのは、ある意味、仕方のないことかも知れません。しかし、そのあまりに無批判な受け売りと、デジタル礼賛一辺倒な調子には、どうにも辟易してしまいました。

銀塩とデジタルの二種類の写真が併存する時代から、デジタルだけの時代に完全にシフトしたのだそうです。写真撮影、写真表現のための手段として、フィルムカメラは市場から駆逐されてしまったのだそうです。フィルムと印画紙の生産を訴える運動は、伝統芸能の保護運動に近いものがあり、切ないロマンチシズムを感じさせるのだそうです(46-47頁)。

私がデジタルカメラを持っていない理由は、至極単純なものです。現有のF3、GR、Pen Sと言った銀塩カメラを超えるほど、使い勝手の良いデジタルカメラに、未だに出会えていないのです。

また、撮影された写真(画像)の質云々よりも、写真行為を背後で支えるバッテリー問題、撮影後の処理や保存性等を考えたとき、いまの銀塩システムによるワークフローのほうが、私にとってはるかに快適で利便性が高く安心なのです。

撮った写真をその場ですぐに見ることに、さほどの必要性は感じません。フィルムスキャナさえ元気で動いてくれていれば、のんびり後回しにできるのです。現像や焼付といった仕上がりを待つまでの時間も楽しいものです。場所は取りますが、確実に「ブツ」として積み上がって行くネガシートも、後の閲覧のための利便性は、私の場合、デジタルデータを上回ります。

撮られた結果としての写真に、銀塩とデジタルとの差異を見出そうとすることは、確かにもはや不毛なのでしょう。また銀塩が170年をかけて積み上げてきた写真行為の身体性を、いまのデジタルネイティヴに押し付けることにも、さほど意味は無いのかも知れません。

ただ、それならそれで、「銀塩にせよデジタルにせよ、どちらも写真行為の選択肢のひとつに過ぎない」と、もっと鷹揚に、銀塩の余地を広げることがあっても良いのでは……と思います。デジタルに向いた資本の流れは、ことほど左様に余裕を失っているのでしょうか。

いよいよ、最後通牒を突きつけられた心地ですが、どこかで「なんくるないさぁー」とつぶやいてみたりするのでした。

2008Nabari037-1

Comments:5

azusayumi 08-11-23 (Sun) 12:33

情報有り難うございます。早速書店に見に行って来ます:)
>銀塩が170年をかけて積み上げてきた写真行為の身体性
というのはまさしくその通りで、単なるノスタルジーではなく、デジタルデータというのは一過性のいわば「仮のデータ」という感じしかしないんですよね。私はいまだにHDに保存してもまだ処理途中という感をどうにも拭えず、宙ぶらりんな感じがしています。それはおそらく自分が最終的にフィルムとなって始めて写真行為が完了する筈とどこかで思っているのだと思いますし、それこそが「銀塩が170年をかけて積み上げてきた写真行為の身体性」なのではないかと拝読して思いました。

デジタルとフィルムというのは実用的には代替なのでしょうが、実は全く別の枠組みなのかも知れませんね。

mb 08-11-23 (Sun) 21:43

azusayumiさん、こんばんは。返信、遅くなってすみませんでした。

こちらこそ、azusayumiさんの”月球儀通信”からは、いつも貴重な情報を頂いています。森山さんの『サンパウロ、路上にて』を手に入れられたのも、実はazusayumiさんのおかげなのです。

>デジタルとフィルムというのは実用的には代替なのでしょうが、
>実は全く別の枠組みなのかも知れませんね。

言い得なかったことに、目を開かせて頂いた心地がします(嬉)。「軒を借りて母屋を取った」と言えば、あまりに酷な言い方ですが、「代替物」でしかなかった「デジタル」が、いつの間にか本家本元の顔をして座っている…..。

画像に限らず、「デジタル」って、いったい何なのでしょう…..。つまり、技術的な定義はともかく、その社会的・経済的な影響を含めた「デジタルの正体」って…..。

さしあたり、私にとっては、

「決して「実体」を伴い得ず、その精確すぎる記録性の故に、却って受け手の想像力を減衰させかねない、電気的な記録方式。記憶媒体と演算処理装置との相乗的・加速度的な性能向上によって、いまのところ、その利便性・応用性の発達に歯止めがかけられず、人間の社会生活に深刻な瑕疵を及ぼしているテクノロジーのひとつ」
…..ってなところでしょうか。

「その程度のもの」と思えるときさえ来れば、フィルムの良さにも、もっともっと目が向くと思うのですが…..。

HIROSHI 08-11-24 (Mon) 0:24

自分はデジタルと銀塩、両方撮りますが、どちらか一方を選べと言われると困り果ててしまいます。
それぞれの利便性を自分のスタイルの中にやっと溶け込ませることが出来てきたので。。。
フィルムがなくなるのは困りますよ、ホント。
いや厳密に言うと、カラーはデジタルでもいいです(笑)
モノクロのフィルムは絶対になくなってもらっては困ります。
時代の流れに逆らっているようではありますが、GR1sを物色する今日この頃です(笑)

azusayumi 08-11-24 (Mon) 11:26

ご返事有り難うございます:D。『サンパウロ、路上にて』はいかがでしたか。実は自分でエントリしていながらまだ観ていないのです。amazonの値引率が最近下がってしまってカートに入れる指が動かなくなってしまいました。大した差では無いのですが、これも貧乏根性のなせる業というか。

却って受け手の想像力を減衰させかねない、人間の社会生活に深刻な瑕疵を及ぼしているテクノロジーのひとつ、というのはなかなか言い得て妙と思いました。

フィルム文化を存続させる会、というのがありまして、これは主として8mmフィルムを主題としているのですが、この発足の辞に、デジタルは光一粒一粒の電子的な記録だが、フィルムは人間の網膜に近いという表現があって、これは先に舌足らずにも書かせていただいた、全く別の枠組み、ということに近いのではないかと思い失礼ながらつい書き込んでしまいました。

ロラン・バルトの著作「明るい部屋」という写真を主題とした美しい論考に、バルトは亡き母親の写真を見ながら、この写真を撮った瞬間の光と、いま自分が見ている写真の光は同じものなのだという下りがあって、この光を媒介とした時間を超えた繋がりという考えに魅了されてしまったのですが、おそらくデジタルではこのような発想は出てこないのではないかと思います。

バルトのようにフィルムを光を媒介としたある種の「呪物」とする考えは、実は写真を撮り、鑑賞しながら自分も心の底で薄々感じていることで、いわば写真家の、行間ならぬ粒子間(とでも言ったらよいか)に潜む思い、情念の部分、それは単に表現と言うより「思いの連続性」とでもいうようなものがデジタルではどこか抜けてしまっているような気がしてなりません。

これはやはり単にノスタルジーのなせる思いこみなのかも知れず、これからは嫌が応にもデジタルに馴らされて行くしかないのかも知れないのですが、文化、表現方法の選択肢が経済原理に左右されないことを願うばかりです。(長々と失礼しました。)

mb 08-11-24 (Mon) 22:53

>HIROSHIさん
いつもコメント頂き、ありがとうございます。
そうでしたね、HIROSHIさんは、D300もF3もお使いになっていましたね。既に双方を、撮影行為ばかりではなく、その後処理のワークフローも含めて自家薬籠中のものとしている方にとっては、「デジタル」と「アナログ」の腑分けそのものが無意味かも知れませんね。
実を言うと、私もカラーはデジタルで良いのでは…..と思った時期があります。それはD700が登場する前頃だったでしょうか。幸か不幸か、D700の出で立ちが、私の好みではなかったので、今のところスルーできていますが、魅力的なデザインのフルサイズがNikonから出てくれば、案外コロリと逝くかもしれません(笑)。
とは言え、それでも踏み止まっている理由は、やはり保存性と閲覧性でしょうか。パソコンを買い換えるたびに、ただでさえ大変な環境の移行を、膨大な画像ファイルとともに行わなければならないかと思うと、なんとも臆劫になります。利便性に首を絞められる心地がします。
それはそうと、GR1sとのことですが、個人的にはもう少し頑張って1vをお勧めします。1sには液晶表示不良の傾向があるらしく、修理の噂を良く聞きます。その修理代を上乗せして、さらに幾分プラスαすれば…..。と、悪魔のささやきでした。

>azusayumiさん
まさか、未だご覧になっていなかったとは!! なんだか可笑しな感じもしますが、勧めた本人が未見であったりすること、私自身にも憶えがあります(苦笑)。得てして、そういうものですよね。
実は頂いたコメントを拝読して、大いに想像力を刺激されています。やはりどこかで、この「デジタル」と「アナログ」の問題については、きちんと整理しておきたい気持ちになりました。
技術とは「利便性の追求」の忠実な下僕であると思うのですが、いつの頃からか、「必要以上の利便性」と形容せざるを得ないまでに突き進んでいる危惧を覚えます。技術が提供する利便性に、身体がついて行かないのです。
「身体がついて行かない」というのは、比喩ではありません。文字通り、即物的な意味です。ロンドンに留学した漱石が、当時の地下鉄の振動に堪えきれず、嘔吐したのと同じ意味です。
そのように考えると、フィルムを大切にしようとする志に、「ノスタルジー」のカテゴリーを当てはめて予防線を張るのではなく、「間違いなく重要な文化、表現方法の選択肢なのだ」ということを訴える必要があるのかも知れませんね。
いまはまだ、充分に言葉が煮詰まっていないのですが、何かが書ける予感がしています。刺激的な返信をありがとうございました!!

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