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赤錆びた光景(16)。

  • October 23rd, 2008 (Thu) 19:01
  • 光画

2007Yskn065-1

わざわざ始発便で上京し、その日一日を写真を観ることに費やしたのは、写真に対して「これだ。」と思える何かに出逢いたかったからでした。しかし、最初に訪ねたRat Hole Galleryでは、予定調和が噛み合わず、後に訪ねたニコンサロンでは、予定調和が噛み合い過ぎて、にっちもさっちも行かなくなったのでした。

作り手には作り手の必然があるように、受け手にも受け手の必然があります。その「受け手の必然」は、明確な言葉として在る場合もあるでしょうし、輪郭のぼやけた「自覚」に過ぎない場合もあります。もしかすると、意識の遥か奥底で、惰眠を貪っていることさえあるかもしれません。

たとえそれが「誤解」や「錯覚」であったとしても、私の中の「受け手の必然」が喚起されたなら(あるいは、喚起された気になれただけでも)、とてつもなく幸せだったろうと思います。不幸にして、その日の私は、そうした興奮を味わうどころか、「写真のことなど、つまりはなぁ〜んにも解っていなかったのだ」と落ち込むことしかできませんでした。

喩えて言えば、高校の国語の副読本を暗記した程度にしか、写真のことを識らなかったのです。それは「解る」ということの実態とは、およそ懸け離れたところにある、皮相なものでしかありませんでした。

撮り手の名前を伏せたまま、一枚の写真、あるいは一冊の写真集を虚心に眺めたとき、そこからその写真や写真集の「価値」を見出し、選り分けることはできるものなのでしょうか。しかも、「売らんがため」の資本の論理とは無縁の場所で……。

多くの写真編集者や批評家たち、そして何より撮り手である写真作家には、他者の作品に「撮り手の必然」や「文体」を感得し、それを「価値」にまで高めうる「語法」や「直感」を、その知識と経験から会得しているのかもしれません。だからこそ「新人の発掘」などといった離れ業が出来るのだろうと思うのです。

ド素人に毛が生えた程度に過ぎず、客観的には単なる写真好きのオヤジでしかないわけですが、それでも門前の小僧くらいには、習わぬ経を読めるようになってみたい…..。もちろん、タダの虚栄心かもしれませんね。

しかし、その「語法」の片鱗だけでも、識っているのと識らないのとでは大違いです。「判断」を支えてくれるものは、所詮、知識と経験と、それに基づいた思考との相互作用でしかありません。それを欠いてしまっていては、撮り手のネームバリューだけで、その作家の作品を、ありがたく拝読するだけに終わってしまいます。

またそのいっぽうで、真に優れた撮り手に対して「王様は裸だ」とつぶやく過ちを犯してみたり、あるいは写真の世界の新しい兆しを見落とした挙句、既に権威をもつ者の言説に追従するしか無くなってしまいます。そうして結局、自分が観たものに主体的な判断をすることができなくなり、なにより、写真を感得する私自身の「巾」を、自ら狭めてしまうような気がするのです。

ニコンサロンを離れてから、ホテルに戻るまでの間、「人の撮った写真をありがたく拝見するよりも、やはり写真は自分で撮っていたほうが、よっぽど楽しいに決まっている(ただし、その結果を見ないことが前提)」などと、うそぶいているしかなかったのでした。

(つづく)

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