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赤錆びた光景(8)。

2007Yskn057-1

いささか大仰な言い方をするならば、それは「巧い写真を撮るにはどうしたら良いか?」といった「技法」に関わる問いではなく、「そもそも、写真を撮るとはどういうことなのか?」とか、「好い写真とは何なのか?」といった問いであったように思います。

「創造」とか「表現」といった高尚なことを考えようというつもりはなく、ましてやプロの写真作家でも太刀打ちの難しい根源的な問いを抱えたつもりもありません。ただただボンヤリと考えていただけです。「飽き」に抗うつもりが、思いがけず、問いの罠に陥った格好になっていただけなのです。

謂わば、誰しも「生き死に」の不安に陥るように、写真への問いが私を捕らえて放さなくなっていたのです。もちろん、いま現在は「生き死に」への不安を忘れて能天気に暮らせているのと同様に、写真への問いの罠も、背後に退いてくれている気がします。そのくらい、お手軽なものであったことは否めません。

とは言え、その問いの不愉快に棹さす必要はありました。さしあたりの参照点は安部公房でした。1996年にウィルデンスタイン東京で開かれた安部公房写真展のカタログ『Kobo Abe as photographer』は、当時の私が唯一所有していた「写真集」でした。もちろん、私はそれを「写真集」として認識してはいませんでした。「好きな作家の撮った写真を収めた図録」に過ぎなかったのです。

それでも、その図録に触発されて、モノクロフィルムを使ってみることにしました。なにかが変わるかもしれない期待を込めて。しかし、結果は惨めなものでした。L判に白い縁取りを施されて返ってきた写真は、何ら劇的ではなく、至って中庸で白けた灰色の世界を陳列するばかりでした。おまけに、カラーの同時プリントよりもはるかに値段がかかりましたから、到底、モノクロを続けることはできないと悟ったのでした。

(要するに、ネガの現像からプリントまでを自分自身で調整し、その後にはじめて自分の望む光景を引き出すのがモノクロなのだということを、当時の私はまったく知らなかったのです。)

寄る辺を無くした者が言葉に縋ろうとするのは、どんな分野でも同じかもしれません。しかし、機械偏愛のエッセイも、写真家が自らを語る装飾過剰なエッセイも、また思想哲学に裏打ちされた形而上のエッセイも、単なる技法解説書も、私の欠乏を満たしてくれるものではありませんでした。

なにより、こちらの「問い」そのものが曖昧模糊としているのですから、答えの着地点が茫漠としているのは当然だったかもしれません。そう言えば、このあたりの事情は「撮る行為」(こちら)という記事にも書いていました。

いずれにせよ、そんな「問い」と「飽き」とが同時に私の中に闖入し、1年近く居座りかけていたときに、森山さんの講演を伺う機会に恵まれたのでした。

(つづく)

2007Yskn055

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