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赤錆びた光景(7)。

  • October 11th, 2008 (Sat) 18:03
  • 光画

2007Yskn049

振り返って、その当時の「飽き」の内訳を紐解いてみると、そこにはいくつかの要素が重なっていたように思います。ひとつは家計の問題。Mookが煽る様々な機械への物欲は、我が家の経済の前には如何ともしがたいものでした。そもそも、フィルムや同時プリントといったランニング・コストでさえ、捻り出すのに一苦労でした。

もうひとつは被写体の問題です。いまでもそのきらいはありますが、Mookやカメラ・写真雑誌の多くは、「カメラを持っている以上、ぜひとも旅に出なければ承知しない」と煽り立てます。

しがない給与所得者で、オマケに出不精の私にとって、「旅」とは「仕事上の出張」のことでした。それも当時は、目的地で用事を済ませると、あとは往復の交通機関の座席の上か、その夜のホテルの整理棚に、行儀良く収まっているだけのことでした。

絵葉書のような風景写真には、もとより興味がありませんでした。そのように撮れる技量などありませんでしたし、またそのような光景を自分のものにしたければ、わざわざ自分で失敗写真を重ねるより、その絵葉書を買ってしまえば済む話しだと思っていたのです。

日常のさりげない光景にレンズを向けたこともありました。雑然とした室内とか、台所とか、風呂場とか、洗面台の鏡に映るマヌケな顔の私自身とか、布団を上げていない寝室とか、寝呆け眼のカミさんとか、ベランダから臨む外の風景などに向けてシャッターを切りました。

そのときは「写真した。」という嬉しさに満たされました。不思議なことに、シャッターを切ることそのものは快感なのでした。しかし、数日後に仕上がってくるL判を見て、ひどく落ち込むだけのことでした。やがて、わざわざ落ち込むためにシャッターを切っているらしいことに気が付きます。そんなことのために、湯水のようにフィルムを費やせるものではありませんでした。

職場にウロついている猫を撮ろうと思ったこともありました。しかし、昼休憩のわずかな時間、F3を振り回しながら人気のない場所に狙いを定め、スーツ姿で野良猫を追いかけまわしているさまは、不審者以外のなにものでもありませんでした。

東京を相手に撮れるような光景は、この土地のどこを探しても見当たりません。ましてや平和な地方都市です。著名な報道写真家や、社会派のカメラマンが提供する過酷で劇的な現実は、もとよりここには存在しないのです。

所有したい機械が最初にあり、その後に被写体を考えたところ、さしあたり家族を撮る以外に選択肢が無く始めた「写真」でした。いま考えると、そのことだけでも、「写真」には意味があるはずでした。しかし当時の私はそのことに価値を見出すことができませんでした。むしろ「ありふれた日常以外に、いったいどんな写真を撮りたいと思っている私なのか?」という問いを抱え始めていたのでした。

(つづく)

2007Yskn045

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