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続 妖怪。

  • June 17th, 2008 (Tue) 19:15
  • 思惟

Tamashima012

「識者」の登場は、手段を選ばない取材過程と、その個人史の暴露に関わる倫理的な問題を隠蔽できるうえ、報道の中立性・客観性をも担保する道具に思えます。加えて、それと明示することなく、「こんな輩に気を付けましょう」という、視聴者に解りやすいHow toを提供するのですから、まさに一石三鳥です。

片方で犯行の異常さ強調し、もう片方で「犯人を生んだ」とする「社会の構造」に眼を向けさせて一般化を施し、「予備軍」への危機感を必要以上に煽るには、さらにぜひとも、事件現場からの生中継が欠かせません。

神妙な面持ちで事件を伝えるリポーターと、その背後で馬鹿騒ぎに興じる若者とのコントラストくらい、その警戒信号を効果的に伝える「演出」は他にありません。その発端は、11年前の神戸の事件に限らないかも知れませんが、あれ以来、この「演出」がひとつの定番として根付いたように思えてならないのです

もちろん、中継が始まる前の、リハーサルに余念のないリポーターの表情や、終わったあとの表情など、我々には知る術もありません。ひょっとすると、その表情の変節は、背後ではしゃぐ若者以上に、恐ろしいものかも知れないのに……。

事後に展開する裁判でも、私たちに伝えられることは限られているだろう、という「諦め」に似た思いがあります。「犯行の計画性」の立証と、「心神耗弱と生育歴」に根拠を置く情状酌量とが、被害者とその近親者はおろか、当の犯人さえ置き去りにして、相争うに違いない…..。

あまつさえ、医者の「正しい診断」さえくっつけば、周到な計画のもとに一人の人間を殺害した犯人よりも刑が軽いという「倒錯」さえ起こしかねないのでは…..と、根拠もなく感覚してしまうのです。

「一を聞いて十を知る」どころか、「百を聞いて、やっとこさ、一を知る」私に、もとより予知能力など、有ろうはずがありません。しかし、事件そのものは言うまでもなく、これをめぐって伝えられる報道や、そこに飛び交う言説は、どこかしら、とっくの昔に織り込み済みで、ひとつも予測の範疇を越えるものではなかったのです。たとえば……

(つづく)

Tamashima011

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