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続 逆の立場。

  • April 23rd, 2008 (Wed) 20:37
  • 思惟

2007Ishiyama050

どんな風見鶏も吃驚仰天の変節ぶりです。我ながら、開いた口が塞がりません。政治家には「ブレないこと」こそ大切なようですが、タダの一市民にすぎない私の場合、ホンの些細な条件さえ与えられれば、いとも簡単にあっちへコロコロ、こっちへコロコロ転んでしまうわけです。

「どの立場でモノを言うか?」という言い方があります。まるで実体の無い「立場」とやらが、生身の人間の口を借りてベラベラ喋るがごとき言い方です。してみると、私の中には、常に複数の立場があります。親としての立場、職業人としての立場、この土地に暮らす者としての立場、尋常ならざる写真愛好家としての立場…..。

仮にそれぞれの言い分に矛盾が生じ、その食い違いを誰かに咎められたとしたら、「私じゃありません、コイツです!」と、それぞれの「立場」を相手の前に開陳し、その「立場たち」に全ての責任を引き受けてもらいたいくらいです。

そんな矛盾した私…..置かれた状況に合わせて、節操なくコロリと逆の立場に転んでしまい、しかもその矛盾に気が付かない鈍感さを併せ持つ私…..という小市民の些細な「安心」を、決してブレない何かに保障してもらいたくて、私は「私」を超えた大きな力に頼りたくなるのかもしれません。そのことが結果として、「善意の悪循環」に荷担することだとしても。

法律にはまるで疎いのですが、最も重いものは憲法だと思っていました。しかし、働き始めて痛感したのは、どんな憲法よりも法律の方が重く、法律よりも条例の方に拘束力があり、条例よりも職場内規の方が個人にとってはるかに厳しいようだ、ということでした。

たとえば、法律に照らせば、せいぜい罰金程度にすぎない罪でも、そのことによって職を失えば、職場内規の方が個人にとって厳しいわけです。逆に内規が免職に追い込んでくれたおかげで、「社会的制裁」とやらが考慮され、情状酌量の余地が生まれるという「倒錯」があるらしいことも知りました。

もちろん、上位に準じて制定されるのが法規ですから、憲法であれ法律であれ条例であれ内規であれ、所詮は一蓮托生なのかもしれません。そしてその末端には、私たちひとりひとりの「感情」が連なっているような気がします。つまり、なにより恐ろしいのは、私に向けられる他人からのネガティブな「感情」で、その正当性が法的に裏付けられることなのです。

あまりに非人間的であり、同時にこれ以上ないくらい人間的(「人間の為せる業だから」という意味です)な「法規」や「判例」が大量に生産され続けています。厳罰化という自縄自縛が「安心」を保障するのは、それが寸分も身動きできない状態を作ってくれるからかもしれません。

昨日の判決について、私は一切の是非を云々できる知識を持ち合わせていません。ただ、感覚的に思ったことがひとつだけあります。それはあの弁護団たちが、実は筋金入りの死刑擁護派だったのではなかったか、ということです。

(了)

2007Ishiyama043

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