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死に目覚めるとき(4)。

  • November 15th, 2007 (Thu) 18:56
  • 昔話

2007Mi034

祖父の死に対して私が過誤を働いた事実が、その後の私の来し方にどう影響したのかは判りません。安手の小説なら、その事実が著しい禍根を残し、人格形成の原点になってしまうのでしょうが、私の場合、そこまで重くのしかかるものではありませんでした。

ただ、放っておけば霧の中に消えたであろう生前の祖父の記憶、そのいくつかが、祖父の死を眼の前にした故に、私の中に深く刻まれることになったのだろうと思います。幼い私が「心筋梗塞」という言葉を憶えたのも、そうした理由に拠るものでしょうか。

後年、祖母と母に訊ねたことがあります。葬儀の日、私は場も弁えず、無邪気にはしゃぎまわったりしていなかったか、と。答えは意外なものでした。「出棺のとき、あんたは泣いてくれたよ」と言うのです。

それはおそらく、悲しくて泣いたのではありません。唐突な祖父の死に、他の誰もが涙を浮かべていたからこそ、その雰囲気につられて泣いたのに違いありません。それを「泣いてくれた」と言われると、かえって辛くなったのでした。

現実の死を、死に対する畏れの感覚で受けとめる力は、幼い私にはありませんでした。ただ、こんなふうにも思います。いま現在の私だって、現実の死を眼の前にして抱く感情と、未だ来ぬ死(それが身内の誰かであれ、私自身のものであれ)に対して抱く感情とは、まったく異質なものではないかと。

祖父の死を眼の前にした幼年の私は、「死」を認識したわけでも、理解したわけでもありません。ましてや「死」に対する感情も、畏れも、当時の私は持ち合わせていないはずです。その感情が芽生えたのは、ずいぶんと後のこと……小学5年生の頃でしょうか。

11歳という年齢が、他人より早いのか遅いのか、それはどちらでも良いことです。11歳のある日、唐突に「死への畏れ」というものが、私を捕らえて離さなくなった、その事実があるばかりなのです。

(つづく)

2007Mi043

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