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梵鐘。

2006Octtyo027

民俗学者、宮本常一の著作に『庶民の発見』という本があります(講談社学術文庫)。その中程の「五 村里の教育」と題する章のなかに、「村の道徳律」と小見出しを振った一節があります(P.193-194)。

少し、抜き出してみます。

「あるところで、大きな梵鐘をつくったが、それを吊りさげることができない。困っていると、村の子供がきて、まず梵鐘にあわせて鐘楼をつくり、鐘の竜頭を梁につないでおいて、鐘の下の土を掘ってゆけば梵鐘はおのずから吊りさがることになるではないかと教えた。村人たちはなるほどと思って、そのようにしてみると、容易に鐘を吊りさげることができた。しかし、そのような子供は将来なにをしでかすかわからないと考えて、村人たちはその子供を殺してしまったという。」(P.194)

この文章の前に、宮本はこのように書いています。

「村の中のすぐれた知識をもっていた者が、その知恵を発揮したために、かえって将来をおそれられて殺されたという話は、かつてよくきいたところであった。」(P.194)

なにゆえ、このようなことが起きるのか。この話につづけて、宮本は2つのことを言っています。

ひとつは、武家社会が自らの封建制を維持するために、自らに刃を向けるような突出して賢い村人に居てもらっては困る。その本音を、このような「物語=道徳」に置き換えたのではないか、という理由。

そして、村人たちにとっても、彼らがその秩序を維持し、村という生命体を守るには、皆が同じ感情と思考をもつことが「道徳」として不可欠であったからではないか、という理由です。

果たして、これは過去の物語でしょうか。私には、ちっともそんなふうには思えないのです。

時代によらず、土地によらず、社会によらず、国によらず、人間の営みにさほどの違いがあると思えないのです。せいぜい、「差異」が気になるか、「共通項」に安堵するか、その力点の置き方を、状況によって都合良く変えているくらいのことなのではないかと。

前の話、どことなく、人間という動物の営みの暗部であり、本質でもあるような気がして、少なからずゾッとするのです。もちろん、それは自分を「圧殺される秀でた者」の側に置き換えているからではありません。むしろ、無意識のうちに「圧殺する側」にまわっているのではないかという恐怖です。

この節の最後を、宮本はこんな言葉で締め括っています。

「事実は、秀でた一人の存在が村の発展や困難克服に大きな意義と力をもっていたのであるが、そうしたすぐれた個人の思想が、村の人々の道徳律に違背することを極度におそれたのは、それが村の生命力を失うようになりはしないかとの不安からであった。」(P.195)

2006Octtyo034

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