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浪漫と現実。

Tyo2005Sep032

『硝子戸の中』という漱石の随筆があります。最初に触れたのは、俳優の日下武史さん朗読の「新潮カセットブック」でした。大学2年の頃です。まったく学校に行かず、ひたすら昼夜逆転の生活を送っていた私にとって、これは手放せない睡眠導入剤のひとつでした。

たしか朝の5時台だったと思います。おそらく再放送でしょう。当時、NHKは1日の放送開始の最初に『テレビ文学館』という番組を放映していました。著名な俳優や声優が、日本の作家の名作を、脚色なしにそのまま朗読するというものでした。

今日のように、隙あらばニュースを流さなければ気の済まない時代ではありません。夏休みとか冬休みとか、いずれにせよ学校が長期休業に入るとき、ふだん放送されることのない番組が流れていたのでした。おそらく、職員の休暇を確保するためでもあったのでしょう。

朗読の声を背景に、淡い色彩の日本画が、さながら紙芝居のように展開します。たったそれだけの、わずか15分ほどの番組でしたが、一晩中、まんじりともせずに夜を明かしていた私にとっては、一服の清涼剤以上の意味を持っていました。クーラーはおろか、扇風機もない六畳一間の下宿で、夜の明けた涼やかないっとき、ボンヤリと14インチの画面を眺めていたのでした。

『硝子戸の中』を、テレビ文学館で取り上げていたかどうかは定かではありません。ただ、耳で聴く文学が、なにやらとても心を落ち着けてくれるらしいと判って、当時、なけなしの小遣いをはたいて手に入れたのでした。

時間に限りのあるテープのことですから、どうしても抜粋になります。全部で39編あるうち、収録されていたのは、たしか20編ほどだったでしょうか。そのなかで、とくに印象的なのは、漱石のもとを訪ねてくる女の話です。

女の身の上話に、いたく同情した漱石が、「生よりも尊い死」について思索をめぐらせるものでした。女性を見送るために、月明かりに照らされた夜道を歩く漱石は、「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と彼女に向かってつぶやきます。

活字が私の脳に映し出したその光景は、他の何よりも美しいもののように思われました。そうして、常日頃「死は生よりも尊い」と思っている漱石が、女性に対して、遂に死を勧めることの出来なかった煩悶を、あたかも私自身の苦痛のように受け止めることが出来たのでした。

ただ、それもこれも、漱石夫人の随筆に出会うまでのことでした。

(つづく)

Tyo2005Sep034

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