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名前依存症。

2006Nagoya022

昨日の記事、実は全く別のことを書こうとしていました。それが書き始めた途端、あれよあれよという間に別の方向へと引きずられてしまったのでした。いささか筆が滑り過ぎました。反省。

書こうとしていたのは、今月号(4月号)の『TITLE』(文藝春秋)のことだったのでした。たしか、asuzayumiさんの『月球儀通信』の記事(こちら)で知ったのだと思います。

どういう傾向の雑誌なのか、まるで知りませんでしたが、今月号の特集は「新・写真道楽!」というものでした。

それだけなら、立ち読みで済ませてしまうところですが、雑誌のHPを見て、そこに「安部公房」の4文字をみつけてしまったのですからいけません。翌日には書店に走り、店員さんに棚を教えてもらって、中身も見ずに買ってしまったのでした。

「巨匠たちの“写真のお手並み”、プロが拝見!」という小特集で、安部公房を取り上げていたのです。主旨は「著名人の撮った写真をプロの写真家が読む」と言うものでした。他にも、永井荷風(×荒木経惟)、イサム・ノグチ(×須田悦弘)、ブルース・チャトウィン(×石川直樹)、ベン・シャーン(×瀬戸正人)が取り上げられています。

安部の写真をプロが見ると、いったいどのように見えるのか、私にとって以前から興味の尽きない問いでした。つまり「安部公房」という名前を削ぎ落として、「撮られたモノ」だけが眼前に置かれたとき、その写真は、特にプロの人からどのように観られるのだろう……そんな私のツボを射抜く特集に、心躍りながら書店を後にしたのでした。

安部の「読み手」は倉田精二さんでした。紡がれた言葉数は、決して多くはありませんでしたが、それでもこの方は安部の小説世界にどっぷり浸かり、くぐり抜けてきたんだなぁ…..ということが伝わりました。

慧眼だと思ったのは、安部の写真の中に、その詩人としての出自を見出していることでした。安部の文体は平易で判りやすく、細密で具体的で即物的だと思っています。つまり、その字面だけを追っていけば、これほど「抽象」の対極にある散文は無いと思うのです。

ところが、読み進めるうちに、浮遊感と息苦しさが同居する世界に押し込まれてしまいます。喩えて言えば、極端に透明度の高いクリスタル・ガラスの迷路に置き去りにされた感覚でしょうか。

倉田さんは、そんな安部の文体(特に、詩人としての安部)について、こんなふうに語っています。

「言葉を高度に圧縮したかたちで使うので、抽象性が高いわけです。そしてその抽象化へのドライブは時に伝統的形容と暗喩を突破する。そして、そこから、さらなる先に「Human(ism)」の問題を見すえる。」(p.65)

鮮やか!としか言いようがありません。読んでいて、思わず顔がニヤケます(嬉)。

せっかくこんな特集が出るくらいなのですから、やはり安部公房の撮った写真で、写真集を作るべきではないかと。全集の最終巻が未だに刊行されていないことの意味を、そんなふうに都合良く解釈したくなるのでした。

しかし、やっぱり私は「名前」から逃れられないようです。虚心に写真を読めるには、まだまだ修行が……。

2006Nagoya027

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