Home > 光画 > 続 表題。

続 表題。

2006Daisen0211

「なるほど、そんなものか。」と思ってはみたものの、頭頂部を不意に襲う雨滴のごとき異和感が拭えませんでした。なにがしかの思いを込めた作品です。その思いは、当然、タイトルに集約されているはずです。

ただ、「作品」とは、展示会場に置かれて、初めて「作品」として完成するのかも知れません。その意味で、自分の作品と、それを包む空間に対して、作家とは、どこまでも謙虚な人たちなのだなぁ…..と思いました。

もしかすると、「表題」が作り手と受け手に対してもつ意味は、決定的に違うのかも知れません。受け手にとって「表題」とは、その作品を識る入口であり、場合によっては、作品そのもの…….つまり、絶対的な地位にいます。

ところが、作り手にとって「表題」とは、その作品と他の作品とを区別する、単なる「記号」なのかも知れません。もちろん、「なんでも良い」というわけでは無いしょうが、付けられた表題は、数ある候補の中から選ばれたひとつに過ぎません。つまり、その出自からして既に、相対的なものなのです。

しかも、それが作品の解釈を一義にすることを、作家は嫌うのかも知れません。ですから、「当たらずとも遠からず」の範疇に収めておいて、あとは、受け手の想像力に委ねてしまう……..。その意味でも、表題とは「相対化の仕掛け」なのかも知れません。

表題に凝るあまり、いたずらに情緒過多症に陥ってしまい、さながら下手な誘導尋問をする如く、作り手の「思い」へと、受け手の印象を操作する…..。なかには、むしろそんな「表題」の方が、受け手のイマジネーションを喚起する場合もあるかもしれません。

ただ、多くの場合、受け手が予想だにしないほど、作家は自作を突き放しており、かたや、作家が予想だにしないほど、受け手は作品に癒着してしまうものなのかもしれません。

過日、上京した折り、後泊の翌日、都写美の資料室にこもっていました。高価で手の出ない、森山さんの『犬の時間』を借り出して、眺めていました。そのあとがきに、森山さんが、こんなことを書いていました。

「このころの「カメラ毎日」でのタイトルは全て山岸章二さんによるものだった」(P.339)

デビュー当時の写真です。たとえば、「暁の一号線」とか「信濃路のさぶちゃん」とか。そのことを、中平さんに冷やかされた、とも書いてありました。

森山さんが、自分で表題を付けていたわけではないことに、軽い衝撃と、愉快な感動を覚えました。なぜ、愉快に思えたのかは判りません。ただ、とってもとっても愉快だったのでした。

(了)

2006Daisen0121

Comments:0

Comment Form
Remember personal info

Trackbacks:0

Trackback URL for this entry
http://memoranda.egoism.jp/blog/2006/10/%e7%b6%9a-%e8%a1%a8%e9%a1%8c%e3%80%82.html/trackback
Listed below are links to weblogs that reference
続 表題。 from memoranda

Home > 光画 > 続 表題。

Spider
Recent Entries
Recent Comments
Archives
Categories
Now Playing
flickr Photostream
DSCF7851DSCF7849DSCF7848DSCF7846DSCF7844DSCF7840DSCF7839DSCF7853DSCF7833
TagClouds
Search
Feeds
Meta
Counter

Return to page top