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怒りと出会った日。

  • September 13th, 2006 (Wed) 22:19
  • 昔話

Tamayu011

その言葉を、私に教えてくれた者が、いったい誰であったのか、そして、それがいつ頃のことであったのか、いまではすっかり忘れてしまいました。両親では無かったことは確かです。学校の先生であったのか、親しい年長者であったのか。もしかすると、テレビの報道番組だったかも知れません。

その言葉とは、「私(わたくし)の憤り」と「公(おおやけ)に連なる憤り」、つまり「私憤」と「公憤」という熟語です。

自分の中に、怒りの感情を覚えたとき、それが「私的な憤り」であるのか、それとも「公に連なる憤り」であるのかを見極めなければならない。もしそれが「私的な憤り」に過ぎないのなら、極力、我を抑えねばならぬ。しかし「公に連なる憤り」だと、自信をもって判定できるなら、ためらうことなく表に出すべきである……そういった主旨のことを言われた憶えがあります。

実は、本質的に短絡的・直情径行の私です。子どもの頃は、殊にそうでした。あまつさえ「短気でなければ、短距離選手には成れないのだ」と思い込んでいたくらいです。そんな私だったからこそ、「私憤」と「公憤」という熟語が、当時の私に響いてきたのかも知れません。

とは言え、たまさか私に訪れる「憤り」のうち、「公憤」に分類できるものなど、滅多にあるはずがありません。どこをどう突いても、また、どれほど多くの補助線を引こうが、とても「公」に連なるようなシロモノではありません。

40代が近づくにつれ、「中高年」として健全な発達を遂げているのか、それとも、およそ正反対の成長曲線を辿っているのか、不安に思うことがあります。ある意味、年齢相応の課題なのかも知れませんが、他人の怒りと出会う機会が増え、またそのいくつかを向けられることが増える中で、その憤りの「公/私」を値踏みすることで、自身の私憤を抑えようとする、卑怯な私がここにいます。

私的な憤りは、私自身を言語不覚にさせるだけです。ただ、もっと恐ろしいことは、「公憤を偽装した私憤の類」が跳梁跋扈していることでしょうか。ウッカリすると、いとも簡単に、思考停止に追い込まれ、「やはり、人間は感情の動物なのだ」と、私自身に白旗を掲げなければ済まなくなります。

本当の意味での「公憤」に出会ってみたいなぁ……と。それはおそらく、静謐な理性に支えられたものだろうと考えているのですが……。

Tamayu012

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