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七歳までは。

Tamayu035

オカルトを娯楽として愉しむことはあっても、それを「真実」として受け止める素養は、残念ながらありません。「輪廻転生」という言葉もありますが、物質としての肉体の、即物的な意味での循環(火葬によって灰になる、気化する、土葬によって土に還る、など)は承知できても、意識や魂の輪廻など、所詮、絵空事の世界だろうと思っています。

しかし、迷信をハナで笑うほどの度胸があるかと問われれば、決してそうではありません。実家に帰れば、イの一番に仏壇に向かい、線香を灯して鐘を鳴らし、両手を合わせて無事の帰郷を報告しなければ落ち着きません。また、再び実家を離れる際には、やはり仏壇に手を合わせ、「行ってきます」と心の中でつぶやいています。

かつて、両親がそのようにしていたからでしょうし、また祖父母も「仏様を拝んできなさい」と、子どもの私に促していたからでしょう。外から見れば、間違いなく「宗教的な儀式」ですし、私自身もそのように思いますが、その内訳を紐解けば、「外から帰ったら手を洗う」という「習慣」と、明確に線引きできるほどの違いは無いのかも知れません。

ことほど左様に、目に見えぬものに突き動かされることの心地よさと、それによって得られる心の安寧を、否定するでもなく、肯定するでもなく、受け止めています。

ところが過日、子どもの話す言葉を聞いていて、ふと、「輪廻」を感じる瞬間がありました。いつものように、添い寝していたときのことです。「○○○(※子どもの名前)、お父さんに会いたかったんだぁ…..」と言いながら、首に手を回して抱きついてきて、そのままスースー寝息を立てて眠ってしまうのです。

ここひと月ほどの間、子どもがこの言葉をつぶやいて眠りに就くことが4〜5回ありました。訊けば、カミさんにも同じようにつぶやくことがあるのだそうです。

以前、「万年筆とモグラの皮」と題する記事の最後に、「添い寝していると、「一緒に夢の中へ行こっか!」と言われ、ギョッとする」と書きました。子どもにとって「夢」と「現実」の境目が無いことを知って、驚くとともに愉快にも感じました。

そのときは、子どものストレートな物言いに、「純」の一字を感じただけでしたが、今回の場合は、さらにギョッとさせられるものでした。墓碑や位牌でしか知り得ない先祖、あるいは、私に精一杯の愛情を注いでくれた亡き祖父母が、息子の口を借りて私に語りかけてくれたのかも知れないなぁ……….。

あまりと言えば感傷的に過ぎますが、そう思うことで、初めて腑に落ちる何かを感じるのでした。

未だ言葉を発せぬ頃、意味ありげに虚空を見詰め、目をキョロキョロさせていた頃を思い出します。間違いなく、私たちには見えない何かを見ていたのでしょう。

そういえば、「七歳までは神の子」でしたね。

Tamayu041

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