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あの感覚。

  • July 13th, 2006 (Thu) 22:10
  • 思惟

Oki0135

「生前」とは不思議な響きをもつ言葉です。存命中の故人の行いを語るとき、さほど意識することもなく、また、誰に教えられたわけでもなく、極めて自然に「生前」と口にすることがあります。

「死して来世に生まれる以前」という意かも知れません。だとすれば「生前」は、現世と来世の転倒を、たった二文字に凝縮していることになります。現世に残された者の知恵でしょうか。

正確な意味はともかくとして、誰が、いつ、どのような文脈で、「生前」を使い始めたのか、またいつ頃から、庶民が「生前」を常用し始めたのか、知りたくなります。

当たり前に使っている熟語の多くが、外来語に漢字の音を当てたものだったり、苦心惨憺たる翻訳の結果の造語であったり、あるいはごく一部の地域で使われていた言葉が、メディアによって伝播したものであったりするようです。「生前」も、あんがい、そんな熟語のひとつかも知れません。

他人ではなく、自分の「死」というものを、強烈に意識した時期があります。11歳でした。きっかけは、小学校の図書館にあった現代史の全集もの。その1頁に、カットほどの大きさで挿入されていた、石川文洋さんのベトナム戦争の写真でした(撮影者が石川さんだと知ったのは、ごく最近のことです)。

ベトナム兵の遺骸を持ち上げている米兵の写真でした。身体の一部が切り離されるという即物的なイメージと、その直前には間違いなく宿っていたはずの「意識」との乖離に、言葉にできない恐怖を覚えたのでした。無惨に途絶された「生」と、単に物体として転がっているだけの肉体との乖離は、とても子どもに咀嚼できるものではありません。

顔をビニール袋で覆われて、窒息しそうな心地……ブランコで威勢良く立漕ぎをしているとき、あるいは飛行機の急降下のさい、鼠蹊部(そけいぶ)を襲ってくる、あの感覚です。「時間は戻しようがない」ということを意識し始めたのもこの頃です。

幸い、この切迫感は、他に興味をひく様々なモノや人との出会いのおかげで、次第に麻痺して行きました。祖父母の死を迎えたときも、あのような感覚に襲われることはなく、現世に残された者として、粛々とその亡骸を葬った憶えがあります。

およそ宗教的な観念に疎い者としては、ひたすら世俗の知恵にまみれて、現世を過ごす以外にありません。言葉としては「あの感覚」と形容しうる、私の存在の基盤を揺るがすほどの感覚ですが、そこから距離を置いていられるのも、「世俗」というコロイドのおかげでしょうか。

Oki0132

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