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『寂しい国の殺人』。

  • April 25th, 2006 (Tue) 21:20
  • 思惟

Oki0014

『ブラック・ジャック』が好きです。印象深いエピソードには事欠きません。なかでも、いまだに憶えているのは、「ずいぶん殺したもんだな。こっちはひとり助けるだけで精一杯だ」と捨て台詞を吐き、立ち去って行くシーンです。

「衝動」が、「特定の個人」という「閉じた袋」の中で発酵するものだとは思いません。むしろ、個人を越えたところで社会的に作られた内圧を、誰もが少しずつ分け与えられているように思います。

中学生の頃、台所で夕食の手伝いをしているときのことです。包丁を手にした瞬間、「これで刺せば、母親は死ぬのだな」と無表情な思いが掠めて行ったことがあります。強烈な憎しみや恨みなど在るはずの無い自分に、どうしてそんな思いが、たとえ一瞬でも掠めて行ったのか、そのことに恐怖したことを憶えています。

おそらく、「心」なるものがどれほど覗き込まれようが、そのときの私を得心させるものは何一つ出てこなかったでしょう。むしろ、私の外界にどのような「衝動」が、時代と社会に特有の空気として散らばっているのかを説明してもらう方が、はるかに納得できたかもしれません。

幸い、私は母を刺すことはありませんでした。おかげで、いまも親孝行な息子として、暖かい関係を続けています。あのとき、唐突に私を襲ったドス黒い衝動が「行動」に転移していたら、いまごろ私はどうしているだろう…..そう考えると、逆に「行動」を阻止してくれたものがなんだったのかと不思議になります。

村上龍の『寂しい国の殺人』(シングルカット 1998年)というエッセイがあります。神戸の事件後に大量生産された言葉の中で、最も深く、私に響いたエッセイでした(単行本が入手しにくい方は、図書館で月刊誌『文藝春秋』の1997年9月特別号をどうぞ)。

人間はもともと壊れているものだし、そのことを家族や法律、理念や芸術や宗教といったもので覆い隠してきた、それらが機能していない現実の「なぜ」を、「何が14歳の少年を殺人に向かわせたかではなく、彼の実行を阻止できなかったのは何か?」という問いに収斂させて行きます。

おそらく、その問いから答えを導くことは容易なことではありません。かといって「問い続けることに意味がある」と開き直ることも無力です。しかし、この連鎖反応とも言える状況に対して、唯一、言葉を発するとすれば、「とにかく、殺すな」ということでしょうか。

Oki0012-1

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