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繋がっているもの(6)

  • December 7th, 2005 (Wed) 20:28
  • 思惟

Hirosaki0019-2

生産労働を共有しない、単なる「居住区」でしかないエリアに、豊かな「地縁」を築くことは可能でしょうか。生活水準や経済力、民族の違いを越えて、かかわりを紡ぐ手立てはあるのでしょうか。

かかわり合うことで生じるかも知れないもろもろのトラブルがあります。これを回避するために「敢えてかかわらない」ことが、むしろ「礼儀」にかなう世の中です。出かけぎわ、隣家の玄関が開く音がすれば、思わずドアノブから手を離すのは、私ひとりでは無いはずです(集合住宅の場合)。

「情けは人の為ならず」という諺も、「迂闊に情けをかけると、相手をダメにするばかりか、ヘタをすると自分自身にも不利益が及ぶ」、そうした誤った解釈の方が、本来の意味よりもはるかに現実味を帯びています。そう言えば、殺人事件の圧倒的多数は、顔見知りの間で起きているのでした。

地縁を束ねる核となる生産労働はありませんし、冠婚葬祭も宗教の手を離れ、もっぱら「経済」の担うところとなりました。辛うじて学校が核としての役割を担い得るように見えますが、そこに在職する教師たちでさえ、年限を限って余所からやってくる異邦人です。申し訳程度に在る町内会の年中行事は、圧倒的に面白い他の娯楽を我慢して参加する「苦役」のように見られています。

そうして誰もがスタンド・アローンで在る中で、「風聞」や「レッテル」だけがお互いの判断材料になり、その「貧困」は承知しつつも、唯一の寄る辺となっています。そうしてその間隙を縫うように、痛ましい事件が次から次へと起こっています。

フランスの暴動、遠くない将来の日本を見るような、アメリカ地方都市の現状、少子化と外国からの労働力への依存、頻発する犯罪、高度経済成長期とその前後とは明らかに異質な「21世紀的コミュニティの変貌」…..なにかが繋がっているように思えてなりません。

白状すれば、「地域社会」という言葉を聞いただけで、どこかしら空々しく、古臭いもののように感じていました。匿名の個人として在ることが、どことなく洗練された、格好の良い生き方のように思っていました。しかし、その幻影は、せいぜい暖かな夜具にくるまって見る夢に過ぎないのではないかと思うようになりました。

おそらく、子どもが学校に通うようになれば、さらに生身の「コミュニティ」を知ることになるでしょう。きれいごとでは済まされない他者の感情に触れるはずです。そのとき、やはり及び腰になって、「もどき」ですらない「匿名の個人」を演じるのか、それとも、そのドロドロした中に歩みを進めるのか…..。

ただ、以前にも書いたように、「「社会が変わった」のではなく、「私たちが社会を変えてしまった」のだ」という自覚に立つのなら、この課題は無視してやり過ごすにはあまりにも明白です。無惨に失われた命への、私なりの償い方を考えなければなりません。おなじ子を持つ親として。

(了)

Hirosaki0020-2

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