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黄葉。

  • November 9th, 2005 (Wed) 21:43
  • 昔話

Mat0022

職場には大きな銀杏の樹があります。今年も黄葉の季節がめぐってきました。立冬を迎えるこの季節、青空に映える鮮やかな黄色は、観ていて本当に楽しいものです。

ただ、ここ2〜3年の黄葉は、どうもあまり美しくないような気がします。以前は一斉に黄葉して、一斉に散っていました。いまでは斑に黄葉が始まり、あたかもムシが喰ったかの如く落葉して行きます。冷え込みが緩いせいかもしれません。これも温暖化の顕れでしょうか。

小学生の頃、校庭の端に大きなポプラの樹がありました。そのてっぺんは4階建ての校舎とほぼ同じ高さでした。四季折々に葉の色が変わり、それが季節の変わり目を伝えていました。2本並んで立つその巨樹は、間違いなく私たちの学校のシンボルでした。

ところが、6年生の秋、なんの前触れもなく、ポプラの樹が切り倒されてしまいました。ある時、担任の先生が私たちに「校庭を見てごらん。なにか、変わったことが無い?」と訊きました。

最初のうちは、誰も変化に気が付きませんでした。そのくらい、そこにポプラが在ることが当たり前だったからでした。ひとりが「あっ!!」と声を上げ、別の子が「ポプラが無い!!」と叫びました。教室は騒然となり、泣き出す子までいました。

理由は、あまりの落ち葉に堪えかねた隣家の抗議によるものだったそうです。確かに、大きなポプラでしたから、その落ち葉の量は半端ではありませんでした。降って落ちるだけならまだしも、それが堆積して雨樋や側溝を埋め尽くし、排水に支障を来たすのですから、隣家にも同情の余地は充分にあります。

ただ、そのとき担任の先生がつぶやいた「樹齢から考えても、あの家の方が後から来たに決まっているのに….」という言葉、未だに忘れることができません。いま、迂闊にそんなことを口に出せば、あるいは懲戒モノなのかもしれませんが…..。いずれにせよ、私たちにとっては、とても素晴らしい先生でした。

根元から1mほどの高さを残して切り倒されたのですが、いまはいったいどうなっているのだろう…..黄葉した銀杏を眺めるたび、そのときのことが一瞬、頭をかすめて行くのでした。

Mat0021

Comments:2

ユリタ 05-11-10 (Thu) 0:01

今、日本に戻る準備で追われています。もっと早めに準備を始めていればよかったと思うのが毎回で、自分の学習能力のなさに辟易します。今までやってこれたのが不思議ですね。

さて、似たような経験を私も幾つかしています。切ないものです。「人間性」と「自然」についてのアリストテレスから続く議論を思い起こすと同時に、学校のもつ自然対人間という二元論に挑戦する機能を改めて感じさせられました。

自然を破壊することによって自分たちの「快適な生活」がつくられ、そのなかで私たちは、体温調節機能などの「自然の能力」を失ってしまいました。こうした、自然を否定することによって獲得した「人間生活」のなかにあって始めて「自然」を「外的なモノ」として意識することができるのだとすれば、自然保護は人間という自我を保持し続ける限りにおいて、完全なる陶酔に過ぎないのでは・・・?と思えてきます。

学校の先生が自然の一部が人間的都合によって排除されたこと、そこに常にあったもの(自然)が突然排除されたことを「時間」で受け止めたこと・・・、人間が乗り越えることの出来ないものとしての「時間という自然」を思わされました。ただ、そこには「自然からすでに切り離された人間のもつメランコリー」という矛盾の影が見え隠れします。また、その木を切り倒すということ・・・。極めて人間的な行為だということになります。

ただし、人間の「社会性」という点から考えると、この木を切り倒すという行為の正当性に疑問が出てきます。

生徒との相談がない点は「公正性」に抵触しますし、生徒による清掃作業や、校区住民や生徒からの基金調達による業者清掃などの社会的な解決を選択しなかったという点において、木を切り倒した決断は、極めて「原始的」な人間対自然の二元論にみえます。

学校という「社会性」を育成する機関が社会的方策と手順を経ることなく物事を進めていくということに、大変な矛盾を感じました。

まあ、長々とすいません。私も専ら現実逃避の真っ最中・・・ということですか・・・ね?

marmotbaby 05-11-10 (Thu) 1:09

……と、先程、お電話したような次第(笑)。

いつものことですが、ユリタさんの「言葉」に触れ、「言語化できない心地良さ」に満たされています。「言語」によって「自然」を見つけ、そこからついでに「人間」を腑分けした私たちが、「言葉」の喚起するイマジネーションに絡め取られてしまうのは(たとえそれが「メランコリー」であるにせよ)、ある意味、とてつもないアイロニーですし、ヘタをすると危険です(笑)。なにしろ「シャーマン」とはそのようなものですから。その手の「政治」が横行していて、なんだかとても恐ろしい。

いずれにせよ、「言霊の社会化」が必要なのかもしれないね。「時間という自然」というタームは、実は「言霊の社会化」の実践例かもしれない。そう感じました(だからユリタさんは油断がならない(笑))。
その自覚的な取り組みが無ければ、相変わらず原始的な二元論にすがり続けるしかないのかも。

右と言えば左、前と言えば後ろ、上と言えば下、東と言えば西….脳の構造の限界なのかな?

要するに、私も立派に現実逃避中、ってことです。はは。

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