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「日常」の麻酔作用。

  • November 27th, 2005 (Sun) 15:02
  • 思惟

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平均寿命70歳と仮定して、一個の人間がその一生に体感しうる「変化」など、実は微々たるものかも知れません。それは「変化の「落差」が小さいから」ではなく、「変化」に対する我々の感受性の問題です。

20年前、誰もデジタルカメラの普及を想像しなかったのと同様に、いまは消滅しつつあるフィルムを気に留める人もほとんどいません(むろん、我々のような一部好事家を除きます)。

Meijerという、食料品を中心としたチェーンストアがあります。鉄砲まで売っているところが日本と大きく異なる点ですが、日常生活に必要なものはたいてい揃う、とても便利なスーパーです。

3年前、この土地に滞在していた当時、このスーパーの至る所にKodakとFujiのフィルムが置いてありました。こちらではISO200の24枚撮りが主流です。その4本パックが、Meijer店内の巨大な空間を支える柱という柱に、電池と一緒にぶら下げて置いてあるのでした。

今回、再び訪ねてみると、フィルムは限られたスペースに固めて在るに過ぎませんでした。代わって各コーナーに置かれていたのは、使い切りカメラです。それも、あまり人が触った形跡は無く、ホコリをかぶって置き去りにされたような具合。売れ残ることが確実なフィルムに付加価値を付け、少しでも高値で売り切ってしまおう….そんな思惑があるのではないかと疑いたくなるほどです。

こんな片田舎のスーパーでさえ、かつては湯水のように置いてあったフィルムが姿を消しつつあるのですから、いかにデジタル化への移行が急激かが判ります。

なにも、消え行くフィルムへの追憶を書こうというのではありません。

今回の滞在で、最も心に残った言葉があります。

「私たちは「変化」を「受身」で表現しがちです。曰く「あの事件を境に世の中の価値観が大きく変わった」「○○の登場が社会の変化を加速させた」等々…..。しかし、その言い回しは、社会を構成しているはずの「個人」や「主体」の存在を曖昧にし、同時にその責任さえ不問に付しているのではないでしょうか? より正確に表現するなら「社会が変わった」ではなく、「私たちが社会を変えた」と言うべきではないでしょうか?」

先に「「変化」に対する我々の感受性の問題」と書きました。敢えてその対立項を措くとすれば、「「日常」の持つ麻酔作用」とでも言うことになるでしょうか。厄介なのは、麻酔にかかるのも我々なら、かけているのも我々だと言うことです。

「フィルムとデジタルの、どちらがより環境に優しいのか?」 かつてそんな議論もありました。決して質の良い議論ではありませんでしたが、いま思えば、健全な反応だったのかも知れません。なぜなら、いまや私たちはデジタルへの移行を必然の流れと受け入れており、それも自覚的に考えてそう結論したからではなく、さながら「集団的健忘症」とも言える状態にいるのですから。

もっとも、ことが「写真」であれば可愛いものです。しかし、この集団的健忘症が、歴史や社会のあらゆる領域で生じており、それがために、強烈なアジテーションの風通しを徒に良くしているだけだとすれば…..。

敢えて封印された多くの言葉に、私たちは辿り着けるのでしょうか? それとも、それはどだい無理な話で、嘘でも新しい言葉を紡がなければならないのでしょうか……。

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