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正しい過ち。

安部公房が好きです。代表作『砂の女』は勅使河原宏によって映画化されました。そのなかで、主人公の男が呟きます。戸籍、身分証明書、運転免許証、保険証、卒業証書、パスポート….自分を証明するものはこれで全てだろうか、と。

安部作品に共通するテーマは「匿名性(アノニマス)」でした。アノニマスであることを強要される、あるいは自らアノニマスであることを希求する、その不条理が悲喜劇の形をとって描かれています。

一見、いまのネット社会は、安部の描いたアノニマスに満ちあふれているようです。しかし、事実はまるで正反対かもしれません。それは(私のこのblogも含めて)誰もがアノニマスになるために、嬉々として「自分」をどこかに「登録」しているわけですから。

「監視社会」という抑圧的に響く言葉よりも、皮肉なことに、我々の日常は、どこか率先して監視すること/されることを望んでいるように思えます。街頭の監視カメラは無論のこと、カーナビや携帯電話、それに付属するGPSなどは、その最たるものでしょう。地上デジタル放送が謳う「双方向」は、我々のチャンネル選択行動を、マーケティングの情報源として漏らさず集積するのかもしれません。また、そもそも、コンピュータと向き合うこと自体、我々の行動を分単位、秒単位で記録させていることに他なりません。テクノロジーによって喚起される「全能感」とは、裏返せば「誰かに視られている快感」のことなのかもしれません。

「悪いことをしていなければ、それで良いじゃないか?」という言葉にストレスを感じるのは私だけでしょうか? 実効性はともかく、予防的な「正しさ」さえ認められれば、それが単なるアリバイ作りに過ぎないにせよ、「正しさ」のお墨付きを得て跳梁跋扈しはじめます。

底無しの悪意を抱えた侵入者に対して、日常がいかに脆弱であるか、我々はよく知っています。メディアは、加害者と被害者の来歴を身ぐるみ剥ぎ取り、「事実」として提示します。そのコントラストから、事件が起こったことの「なぜ?」を「腑に落ちる物語」に再構成します。どこから卒業文集が出てくるのか、その倫理性が問われることはありません。

「腑に落ちる物語」を流し読む我々は、好むと好まざるとに関わらず、「類推」や「予測」に基づく相互監視の網目を張り巡らせます。隣家に泣き叫ぶ子どもがいて、その保護者がいつも茶髪にジャージ姿であるとき、「虐待」の二文字を浮かべぬよう、自制することは可能でしょうか? 「通告の努力義務」という錦の御旗を得た途端、その保護者とかかわりをもつよりも、「通報する」もしくは「行政に任せる」ことが最良の選択となり、「かかわること」は個人にとってリスクにしかなりません。それが全体として集積すれば、制度化とは、ある意味「正しい過ち」を引き起こしているのかもしれません。

あまりにも多くの事件が、「特異」というラベルの中に一般化され、「起こり得る、とても見慣れた光景」として提示され続けてきました。「日本の犯罪報道は『捕物帖』。「逮捕」がクライマックスで、より大切な、その後の裁判には全くと言って良いほど無関心」と言ったのは、たしか中坊公平氏だったと思います。諸外国の犯罪報道の多くが、すべて結審した後に初めて報じられるのに対して、日本の犯罪報道は著しく異なります。「容疑者」という「肩書き」を与え、手錠の上にモザイクをかければ「人権を尊重した」と開き直る風潮は、いったい、いつまで続くのでしょう。

ある企業の社長は、シナジーによってメディアに新たな価値を創造する、と息巻いています。それに対抗するもうひとりの社長は、健全な日本の資本主義のために断固戦うと言います。どちらにもまったく思い入れできないのは、それが私にとって「他人事」であるからではなく、どちらからも「公益」への倫理性を感じ取ることができないからかもしれません。

Comments:2

complex_cat 05-02-15 (Tue) 18:10

最近漫然と感じている事を,ここまで見事に表現しておられるアーティクルを読ませて頂いて,とても幸せな気分です。
『どちらからも「公益」への倫理性を感じ取ることができない』というのはとてもよく分かります。彼らのやりたいようにやった「理想の世界」の中で,果たして子供達は笑っているのだろうかと,なんとなくそんなことを聞いてみたいなと感じます。残念ながら,そのような事は,全く何も気にしていないのではないかという印象を持っています。
 金も社会的な力も持ったいい大人が,公益性もですが,次世代の公益性ということを考えないなら,子供とすればどうするしかないのか,その結果社会がどうなっていくのか,なんとなく複雑なシミュレーションなどしなくても分かるような気がしています。

marmotbaby 05-02-15 (Tue) 20:41

c_cさん、さっそくコメント頂き、ありがとうございました。
今回のエントリーは、少し重たくなりすぎました。その原因は、『また一つの視点から』の嘆息さんの最新エントリーにあります。すべて、彼の責任です(笑)。
「次世代の公益性」を、我々は真剣に考えなければならない時期に来ているのかもしれません。携帯電話利用料金における家族割サービス、駐車場完備の居酒屋チェーン店におけるチャイルドルーム設置等々、「経済合理性」にかなう「公益」が、いかに社会的な不具合を生じさせているのか…..。
実は「正しく間違っている」という言葉は、経済評論家の内橋克人さんが、数年前のテレビ番組で語った言葉で、私のオリジナルではありません。自戒も込めて言えば、高度経済成長期の落とし子である昭和30年代〜40年代生まれの私たちは、とんでもない過ちを犯しているのかもしれません。果たして、blogを通した交流は、なにかを変える力になりうるでしょうか….?

追記:このエントリーを投稿した直後、FireREX1が届きました。またレポートします。

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